Radio Control Models
子供の頃には高嶺の花でとても出来なかったラジコンを始めました。写真の存在しないものも多くありますが、ヘリコプターで始め、エンジン、電動カー、飛行機とやってました。写真の残っているものを紹介します。
カルト製:50バロンS

1987年頃、ある○くざの親分にもらったお小遣いを元手に中古のヘリを買いました。当時はまだコンピュータプロポはなくFM(アナログ)の送信機(8ch)でした。


全く一人で始めたため、指導者もなく、調整方法も分からないのでこのようにホバリング出来るまで8ヶ月もかかってしまいました。木製メインローター、PP製テールローターがまだ主流でした。
カルト製 60バロンアルファ


やっとホバリングできるようになったのでマシンを新調しました。奥様にばれない様にその日組み立てるだけの部品を持って入り、古いマシンをそれだけバラして持ち出してました(笑)。

この頃に送信機をアナログからPCMの10chに変えました(JR PCM10)。FRP製メインローターが普及し始めたころでジャイロはまだ回転式です。
その後、少しずつ個人で楽しんでた人たちが集まるようになりました。ラジコンの性格上譲り合いがなければ楽しめません。同じメンバーが集まるようになっていたところ、この山のオーナーに声を掛けられ、山頂を貸して頂く事になり、クラブを結成し滑走路と登山道の整備をしました。私は初代会長となり約5年間やってました。滑走路は約80mで初心者では大型飛行機の着陸は難しい長さですが、専用飛行場を持つクラブは多くないので皆喜んでいます。オーバーランしそうなときは着艦ネット(きゅうりネット)の登場となります(笑)。
瀬戸内海に接する滑走路は山頂にあるため山に当たった風が非常に複雑な動きをするので少し風が吹くと飛行機の着陸は難しくなります。失敗するとこの山の中に墜落となりますので、機体発見装置の装備は必須です。
定期的に競技会を開いたり家族ぐるみのお付き合いになりました。駐機場ではみんなでよくバーべQ大会で楽しみました。瀬戸内海の多島美を眺めながらの食事は最高で、お天気がよければ四国連山も望めます。

西側に見える野呂山山頂が雲で隠れると十数分後に雨が降り出すサインです。雨がひどくなると山を下りて近くの喫茶店で談義は続きます。話題は細かいパーツ自慢やセッティング、操縦テクニック、事故調査委員会とキリがありません。

駐機場には共同で買った倉庫があり、中には椅子やビーチパラソル、草刈機、機体捜索用ロープが入っています。エンジン始動用大型バッテリーはソーラー発電で常に充電されています。1998年の写真です。
60クラスのヘリは維持費もかかるので30クラスのヘリを中心に飛ばすようになりました。手前はShuttleのラマで友人の機体でリカちゃんが乗っています。奥が私の機体(TSK)です。少し飛ばせるようになったのでFRP製ジェットレンジャー風ボディーをかぶせました塗装はラッカーにウレタントップ。テールドライブは6mmカーボンパイプで支持する方法にしました。メインローターはねじり下げのあるFRP製です。
調子の良い機体で最後まで墜落させることはありませんでした。

1991年頃
1992年頃

スケールヘリは飛ばせるようになることを予定して長い時間(約3年)かけて完成させた60クラスのエアウルフです。

メカは当時有名だったSSWの新品を安く入手、ヘッドはカルトの樹脂製のスタビライザー取り付け部を切断してスタビレス仕様にしました。ボディーは米国製FRPボディーのAir Wolfを改造しました。テールドライブはカーボン、内装は座席とダッシュボードは本革張り、メーター類は殆ど点灯し、引き込み脚装備です。数千のプラスチックリベット取り付けだけで3ヶ月かかりました。
初飛行時の写真です。排気は両方のジェットノズルから出るように排気管を自作しています。メインローターはねじり下げ付きカーボン製です。エンジンメカとも健在です。
ほとんどクローズのボディーなので上部と左右のエアインテークは開口しています。飛行中の振動でアルミ板で作ったワイパーが外れてしまいました(恥)。
1993年頃

ヘリがある程度飛ばせるようになると、飛行機も着陸以外は飛ばすことは出来るようになります。ヘリが飛ばせるといってもその辺をヨタヨタ飛んでいるのはストレスが溜まるので飛行機を始めてみました。名前は忘れましたがOK模型のフレームがアルミ製で壊れた部品をヘリの感覚で取り替えれば済むということでこの練習機にしました。

しかし、下手な着地でもフレームが曲がってしまい、墜落に近い着地でも全損といえるほど壊れるので寿命は短かったです(泣)。
1993年頃

ラジコンは大きいほど飛ばしやすくなります。4サイクルエンジンの排気音にも憧れがありましたのでOS48FSを搭載した半完成機のパイパーカブです。フィルム張りまで完成しているのでエンジン、RC装置の搭載とリンケージだけで飛ばせるようになります。重めの機体ですがとても素直で飛ばしやすい機体でした。
1994年頃

それまで飛行機は半完成や組み立てるだけのものだったのでバルサキットも組み立てていました。約1年かけて作ったセスナ172です。エンジンはパイパーカブからのものです。フラップはヘリ用のフライトモードを使い角度切り替えとエレベーターへのミキシングをかけてありました。

当時の私の腕ではこのような完全スケール機を飛ばしこむには腕不足でした。最後は強風の中を無理して飛ばし、滑走路まで帰ってきたものの地面に激突してバラバラになりました。
1997年頃

京商のフィルム張り完成機で4サイクル50クラススタント機「オーラム50」です。エンジンは新しく出たOS52FS(4サイクル)を搭載しました。

上空をかっ飛ぶ姿に憧れましたがこの手のスタント機を飛ばすにはまだまだの腕だったようで最後はよく覚えていませんが着陸時スピードを殺しきれず接地大破したとおもいます。写真はエンジン慣らし運転中です。
1997年頃

前作オーラムで実力を思い知りましたので当時イリサワから発売されていたフィルム張り完成機で低翼トレーナーのトライ30にしました。

見ての通り厚翼でテールモーメントも大きいので大変穏やかな機体で、現在も健在です。
TSK Brack Star

ランニングコスト(落とすと高いですけど)の安いガソリンエンジン(33cc)ヘリです。重量は約6kg、メインローター直径は1.8m(FRP)、カーボン製テールローターにしました。振動が大きくテールブームのサポートを自作しました。
この機体も運がいいのか上空での突然のエンスト(絞りすぎ)でもこの長大なローターに助けられオートローテーションで無事回収できました。現在もこの形のままです。

1997年頃
1998年頃

OSのFS48(5cc弱)を搭載した三機目は複葉アクロバット機のアクロメイトです。翼長が短いのですが意外に飛ばしやすくこの機体でかなり遊ばせてもらいました。バルサキットですが正確に組み立てられるよう工夫されたいい機体です。

この頃までに2サイクルエンジンの双発機なども作って飛ばしましたが写真が残っていません。双発エンジンの共鳴音はなんとも言えず好きでしたので残念です。

同じく1998年頃の写真ですが、原因不明のエンストにより滑走路端まで戻ってきたのですが少し足りず斜面に激突大破しました。重くなるのを覚悟なら修理不能というほどではありませんでしたがあきらめました。このエンジンを載せた最後の機体となりました(エンジンは現在も健在です)。
1998年頃

ウェヴラ50搭載のエルゴ50タイプ2です。120度のスワッシュプレートの機体で、振動ジャイロも搭載しました。クラッチやフレームセパレーター、テールブームホルダーはカーボン製とは他社製オプションで固めています。頃送信機を最新型のPCM10Xに換えました。
それまで調子よかったのに上空で突然のエンスト!!しかし位置がよかったのでオートローテーションで無事回収しました。原因はキャブレターの脱落でした。飛行前点検の重要さを思い知りました。