趣味の音楽
S.45(1970)広島市立幟町中学校吹奏楽部に無理やり入部させられ1年生ではアルトサックス、2年生からテナーサックスに転向。2年生のとき中国大会まで進出するがそこで敗退。
S.49(1974)頃
当時憧れだった先輩と同じ高校を受験、追って入学したがそこには吹奏楽部がなかった・・・・

S48(1973)憧れもあった広島吹奏楽団に入団を申し込んだが断られ仕方なく広島青少年センターの吹奏楽サークルに参加。

S49(1974)もう一度広島吹奏楽団にアタック!、たまたまテナーサックスに欠員が出て入団となった。

写真は広吹の先輩に誘われ「あららぎ康則とスィング・ザ・ファニー」と言うバンドにも参加、ここでは3rd Saxを担当(後に1st Sax)。中村雅俊ショーでの写真、歌っているのは青い三角定規。
このバンドでは西川峰子、ダ・カーポ、野路由紀子、石江理世などのプロ歌手の伴奏を多く経験した。
S50頃(1975)

同じく「あららぎ康則とスィング・ザ・ファニー」での写真、この頃1st Saxに転向。高校の3年間はこのバンドと広島吹奏楽団の活動に明け暮れる。

「あららぎ康則とスィング・ザ・ファニー」にはS49(1974)からS58(1983)頃までの約10年間お世話になりました。
S53頃(1978)

広島吹奏楽団での活動も5年目位の写真です。このときの定期演奏会では吹奏楽のアレンジャーで有名な岩井直博氏を招き、氏編曲の「ニュー・サウンズ・イン・ブラス」シリーズを演奏。

広島吹奏楽団にはS49(1974)からS56(1981)頃までの約7年間お世話になりました。
S55頃(1980)

S51(1976)大学入学するも、ここにも吹奏楽部がなかったが、1年先輩の数人とともにサークルとして立ち上げました。翌年クラブとして認められ本格的に部員を増やし活動を開始。定期演奏会を開始するまでになる。同時に岡山の「OKジャズ・フェニックス・オーケストラ」や「玉島シニア・バンド」にも参加。S54(1979)には自己のビッグバンド「ザ・イエロー・ペリル・オーケストラ」も活動を開始する。夜はキャバレーやダンスホール、スナックなどでアルバイトもしていました。
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