御幸橋(みゆきばし)
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南区皆実町(写真左)と中区千田町(写真右)を結ぶ交通の要所になる橋です。 |
街灯は最初の架け替え時のデザインを踏襲しています。 |
橋は片側3車線、計6車線で広めの歩道、中央部は路面電車が走っています。 |
橋の中央部から下流方向を望む・・・中央は安芸の小富士と呼ばれる似島(にのしま)。原爆投下直後は多くの人がこの島に逃げました。未だに遺骨の発掘が続いています。 |
橋の中央から上流方向 右に見えるタンクは広島ガスの都市ガスタンク |
西詰め南側には原爆投下3時間後のこの場所の写真があります。爆心から南南東に約2300m離れた場所ですが全身に火傷をした半裸常態の人たちばかりです。 |
1885年(明治18年)に最初に木造橋として建造されました。 |
その後架け替えられ1931年(昭和6年)現在の橋は2度目の架け替えで1990年7月(平成2年)完成しました。架け替えにあたり地元の人は親柱、欄干の保存を求めましたが、親柱3本と欄干の一部だけ保存されました。 |
西詰め北側にあるモニュメント 碑文(全文) 御幸橋は 明治18年(1855)木橋として架けられた 昭和6年(1931)近代的な橋に架け替えられ 今日まで市の中心部と宇品地区を結ぶ交通の動脈として 大きな役割を果たしてきた 日清戦争以来第二次世界大戦争終了まで 多くの兵士らがこの橋を渡り 宇品港から戦地へ赴き異国の地に眠った また 昭和20年(1945)8月6日 世界最初の原子爆弾が投下されたとき この橋を渡って避難した市民も多い 広島の歴史を見守ってきたこの橋の2度目の架け替えが終わった 新しい橋の完成と被爆45周年を迎えるにあたり 失われたものへの鎮魂と平和 そして輝く明日への希望を込め この碑をここに設置する 平成2年(1990)7月 寄贈 財団法人 多山報恩会 製作 藤原 雄 |
不要になった公衆電話ボックスを利用したモニュメント 内部には原爆で溶けた瓦、ヘルメットや米軍の投下ビラ、千羽鶴が飾ってあります。「明日の千田を創る会」が寄贈したものです。時計は原爆投下時刻の8時15分を示しています。 撮影 2004/08/18 |